新しい春:山上殊勲(11)夜明けの守り12015.12.君たちの義が律法学者たちとパリセ派の人々の義より良くなければ、君たちは天国に入ることができないだろう。(馬5:20)精神の保湿冬の風に乗せられた昔の記憶が色あせた白黒写真のようにかすかだ。 その中には父のため息があり、涙がある。 昼間は町内のサランバンに集まり、気まずい冗談を交わしながらタバコを賭けて花札をし、夜はトランジスタラジオに耳を傾けながらかますを叩いていた父親たち。 彼も私もしおれると、凍りついた田船尾のそばの水たまりを探して隠れていたドジョウでフナ·アザラシなどを捕まえて釜を煮込んでたっぷり食べたり、雪に覆われた前山の裏山を上から下に走り回りながらキジやウサギを追い詰めたりした。 考えてみると、それは運動選手たちの冬季トレーニングのようなものではなかったかと思う。 冬の真ん中に春がそびえ立つように(立春)、農作業は冬に始まるのだからだ。 しかし、何よりも重要なことは客土作業だった。 河川敷の沖積土や、赤色を帯びた山地の土壌を汲み出して土質が弱くなった田んぼの上に長く伸ばす作業は父親たちが最も力を入れたことの一つだ。 また、稲の木が残っている田んぼを何度も掘り返して、その中に鶏糞のようなものを入れたりもした」。お父さん、まだ稲を植える時でもないのに、なぜ田んぼに行くんですか?」「そうしてこそ、土の中にも空気が染み込んで地面が肥えて蘇るんだよ。」突然の記憶の糸の先で私は「教える」という言葉をつかんだ。 「教える」という言葉と「行く」という言葉は同じルーツから出たという。 私たちが誰かに教えるということは、彼の心を覆して、その中に新鮮な空気を吹き込むことだろう。 師匠とは、固まった心の知覚を覆す精神の補習ではないか。 予言者たちは人類の補習だった。 「今は君たちが主を探す時だ。 古い土地を掘り返せ」(号10:12)イエスはあなたに従う人々を指して「手にすきをつかんだ者」(9:62)と言った。 自ら人類の補習として来られたその方は、形骸だけが残った、息をする暇さえないバリセ的な敬虔の胸ではどんな生命も育たないことを見抜いた。 常套的で儀礼的な慣行はいつもアヘンになって私たちを怠惰な精神にしてしまう。 それだけでなく、それは質谷になって他人の心を縛り付ける。 山上殊勲は私たちの固い心畑をひっくり返す精神の矛先であり、束縛を断ち切る精神の活人剣だ。 既得権を持つ人々は、その矛先を受け入れようとしない. 彼らは律法主義の古い畑を守ろうとしている. しかし、その固まった体制の下で息を殺していた生命たちにとって、イエス様の言葉の矛先は解放の便り、すなわち福音だったのだろう。 しかし、拍手ばかりしていることではない。 その覆し返しは、より大きな生命を宿すためのものであって、既存秩序の転覆を目指すものではない。 そのうんざりする律法条文をもう投げ捨てようって? モーゼも一度十戒の石版を投げたが、私たちだからってできないことは何だって? もう自由だって? 好きなようにしてもいいって? 雪原のように燦爛たる恩寵の新しい世界が開かれたが、律法というぼろは脱ぎ捨てようと? 違う。そうじゃない。 イエスは弟子たちに峻厳に告げる。 「私が律法や預言者の言葉を廃しに来たとは思わないで。 迷惑に来たのではなく、完成に来た。あなた方の義が律法学者やパリセ派の人々の義より良くなければ、あなた方は天国に入ることはできないでしょう」 イエスはこの世のすべての文化と伝統を浄罪しに来たのではなく、完成しに来た。 イエスの弟子たちに求められるのは、より厳格な生き方だ。 私たちは信頼で救われるのか? そうだ。それなら信頼さえあれば適当に生きてもいいのか。 違う。信頼の人には「適当に」という言葉がない。 彼は全力と真心を尽くして天の命を捧げるからだ。 彼は人々の評価によって揺れない。 少なくとも他人の目を意識して行動しないということだ。 「他人の視線が私を堕落させる」というサルトルの言葉は、人間がどれほど虚弱な精神的土台の上に家を建てる存在かを示している。 ポプラの頂上に建てたカササギの家は暴風が吹いてきても崩れないが、私たちの存在の家は小さな風にもどうしようもなく崩れてしまう。 精神の浅はかさを警戒せよ、孔子は「他人が認めてくれなくても怒らない人」が君子だと話した。 彼は社会的認識や評判に頼るよりは、天の意思を受け入れるというより遠大な目標を持って生きている。 彼は自分の中に垂れ下がった暗くて陰湿な欲望を、世の中の涙を拭うことに最善を尽くす。 儒家では君子の生き方を「去人欲、存天理」という言葉で要約する。 それに対し、小人はいつも自分の欲望の周辺をうろつき、ついにクモの巣にかかった虫のように他人の視線に縛られたまま人生を使い果たす。 彼らはいつも非難すべきことを外で見つける。 イエス様に天から降りてきた標的を見せろと要求したバリサイ人のように、彼らは人生の中心を外だけで探す。 彼らの人生は「居人斬り、廃天理」といえるだろうか。 少しは過酷な言葉のようだ。 しかし真理に目覚めることができなかった、魂がこもっていない私にはそのように見える。 ごちゃごちゃが魂の虚弱を示すしるしだと知りながらも、私はこのようにしか言えない。 ところで、今日「城島」と名乗る私たちは君子に近いのか、小人に近いのか。 これは各自が答えるべき問題だ。 だが、「神聖さを追求する人」が小人ではない。 「小人輩聖徒」という言葉は形容矛盾である。 しかし、現実はそうではない。 自分の利益の前に一寸の譲歩もない「小人輩聖徒」、自分を分かってくれと、高めてくれと黒いお金を使うことを恥ずかしく思わない「小人輩聖徒」、自分の過ちを隠そうと他の人を陥れる「小人輩聖徒」、自分の意にとらわれてむやみに他の人を裁断する「小人輩聖徒」が多い。 私はこれを言いながらも、毛骨が松煙を感じる。 他人の話をするのではないことをよく知っているからだ。 孔子は自分から間違ったことを見ると、自分の中に法廷を設け、自分と訴訟を起こさなければならなかった。 これを自送という。 このような激しい自己省察と修徳を経てこそ、人は悪臭を払い香りを漂わせることができる。 イエスが弟子である私たちに要求するのは律法学者たちとバリセ派の人々より良い義だ。 もちろん、これは外的な行為規定をより徹底的に遵守せよという要求ではないだろう。 上記で課された規定は、私たちの魂に自由と喜びを与えることができないからだ。 問題は、私たちの魂の中心を神様に合わせて生きろということだろう。 魂の中心の幼い頃、クヌギを削って作ったこまを持って氷の上に出ると本当に楽しかった。 小さな棒に布切れをつけて作ったままこまを回していたら、時間が経つのも忘れていた。 でも本当に不思議だよね。 ラケットに当たってあちこちよろよろしていたこまは、すぐに重心を取ってからは、これ以上揺れなかった。 問題は中心だ。 人生に揺るがない中心ができれば、私たちはこれ以上人生の道を歩かなくなる。 しかし、私たちをよろめかせるものを脱いでしまうことは決して容易なことではない。 古い服なら脱いでしまえばそれでいいが、「私」は最後まで背負って行かなければならないカタツムリ屋のようだ。 欲望は私たちの中心を揺るがし、そこから始まった愛憎は精神を疲弊させる。 疲弊した精神が歩いた場所に残るのは重さと傷だけだ。 明の呂坤(ヨゴン)という人は、かつて心と姿をともに清らかにしようという意志を持って暮らしていた。 そのため、彼は4つの言葉を胸に刻んで生きてきたという。 「行いは澄んでいて、名前は濁って。 道は進むものの、体は引き下がるように。 利益は後にして、害は先に。 残りは豊かにするものの、私は倹約しようと思う」 十字架の聖ヨハネも似たようなことを言った。 より簡単なことより難しいこと、よりおいしいことよりおいしくないことより楽しいことより、むしろ楽でないことを休むことより大変なことを慰めることより、慰めのないことより大きいことより小さいことより高く、価値のないことを望むより、何も望まないことを世界のより良いことを探すより悪いことを見つけなさい。キリストのために、世の中のすべてのものに対して完全に脱ぎ、祈り、ない体になることを願う。 これは今、私たちが目指す人生をほぼ正確に覆したものではないか? 聖徒の人生は天の道を示す道しるべにならなければならない。 「完全に脱いで、空いて、いない体になること」を願うことこそ真の人間の道だろう。 ヨハネに洗礼を受けて陸に上がってきたイエス様の顔、多宝山の上で太陽のように輝いていたイエス様の顔は、自分を完全に空けた人の顔だったに違いない。 誰かを罪人としてさらしてしまう律法学者たちとバリセ派の人々の意ではなく、他の人々の中に眠っている光を目覚めさせる暖かい義、私たちは彼の義のために呼ばれた。 あ、道が本当に遠いね。——— 新春: 山上殊勲(サン·サンフン、12)夜明け前1 2015.12.19. ただ君たちの言葉は正しい、ではなく、ハライで通るものは悪に追い付くのだ(マ5:37)イエスは言葉の経済学を本能的に体得したようだ。 彼の教えは簡潔で素朴だ。 賢学もなく, とんでもない弁舌もない 比喩を使ったのも言葉を曖昧にするためではなく、むしろ人生の実状を私たちの心象に描くように見せるためだ。 時々、彼の言葉は短剣のように鋭い。 嘘と偽善をえぐり出す時だ。 彼の言葉が夢を見るように美しい時もある。 生の豊かさをさらけ出す時だ。 この時、彼の言葉はヨハンの人生に疲れた彼らの憂鬱な胸に生命の気運を呼び起こす春風になる。 浅薄な好奇心を示す群れには、無口で雷よりも大きな響きを起こしたりもする。 彼の宣言は一種の播種行為だ。 地面に植えられた種が寝て起きている間に芽が出て育ってついに結実するように、彼の言葉は事件を起こす。 慣習的な馬の垣根の中に喜んで留まっている彼らにとって、彼の言葉はいつも見慣れない。 だからこそ、不穏だ。 インディアン呪術師である「転がる雷」は「卓越した師匠は自分の言葉を証明しなければならないと考えず、さらに弟子が今それを理解することを望んでもいない」と話した。 イエスはそのような意味で卓越した師匠だ。 イエスは自分の言葉を人々に納得させるために